開拓70年講話 戦後入植してからの10年

2015年9月20日 開拓祭/敬老の集いで4組松村直彦さんが語られた篠原開拓の歴史です。
貴重な体験談としてホームページヘ掲載しました。

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戦後70年、毎日のテレビそして新聞で、70年の物語りが目につきます。
20年8月15日、どのような篠原だったのか。
女取川に沿って小海線下から高岡さんの上あたりまで、甲府連隊の農耕隊が馬や牛それに山羊を飼育し、また野菜その他いろいろ作り、甲府まで運んでいました。
篠原神社の横あたりに三角兵舎「間口6メートル奥行10メートル」で兵隊は生活していました。
三角兵舎は図のように太い丸太を2本中心に立て、屋根は萱ぶきで地面まで屋根です。
この辺だけ畑や小屋で開けていて、周りは全部松林です。下は松向大糸桜の50メートルぐらい上から西は富士見の鹿の湯の方まで林です。
しかし所どころ山火事で木が無く原野になっていて、この辺一帯を三里ヶ原といいました。
鹿の湯の所は広原といいます。
林の中は1.5メートルぐらいの馬車道、0.5メートルぐらいの馬・人・鹿の道が迷路のようになっていました。
旧村の人たちは家畜の青草や干草づくり、また薪木とり、冬には萱刈りなどに長年使っていた所です。
原野には山火事で残った1本松とか5本松、篠原の上に3本松などあって良い道標になっていたようです。
下の人達は昔からここを原と言いました。

そこへ20年9月15日、第1陣の人たちが開拓者として入植しました。
横が女取川で川の名前を取って女取開拓組合ができ篠原区が生まれました。
70年前の9月15日です。
21年八っ原開拓組合ができ、名前は八ケ岳の原で八っ原です。
出入りが多く2陣、3陣、4陣と23年に落ち着きました。
第1陣の人達は三角兵舎で生活し、3−4人で組を作り自分たちの家を作りました。
穴を掘り丸太の柱を立て、屋根は萱、壁も萱。
そして自分の家へ移りました。
21年八つ原の人達も同じように家を作り、23年頃までに三角兵舎には50人以上の人がお世話になりました。
その後篠尾小学校篠原分校として1−2年活躍して知らぬ間に無くなりました。

25年頃女取八つ原が合併し篠原開拓組合が出来ました。
八つ原組合は現在の2組あたりの所へ40戸ぐらいの家がありました。
その後県のご指導で40戸の半分ほどが線路上に移動して、広い面積の土地で営農ができるようになりました。そして今の形の篠原区になりました。
今の女取区は篠八田と小野組合が合併して女取区に、大東豊区は大富、東和、豊畑3組合が合併して大東豊区になりました。

入植した人達は海外からの引揚者と東京、大阪、甲府などの戦災者です。
開拓はまず家を建て、次は畑を作りのための開墾です。今ではユンボとかトラクターがありますが、70年前はクワ、ガジ、カマしか無く一鍬一鍬の開墾です。県開拓課の先生が考案した三味線ガジが支給され、とても楽になり、画期的なガジでした。

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開墾すると補助金がでます。その補助金と営農資金を借りて、そのお金で細々と生活しました。
開墾開墾で畑を増やし、いろいろの種を蒔き、秋には大豊作を夢見ていましたが、海抜1000メートルでの農業の厳しさ、春が遅く秋が早いなど初めて知る事になります。
28年、29年と2年続きの冷害で全国的な凶作などがありました。
県の指導で冷害に強い酪農が良いということになり、牛、畜舎、サイロなどの資金を借りて皆が酪農家になりました。
将来はアルプスのような大牧場を夢見てとても明るい時期も、少しありました。

お祭りは第1陣が入植した9月15日が篠原神社秋の例祭に決まりました。
休日平日は関係なく15日が祭りです。開拓地のカレンダーは月月火水木金金でした。
41年敬老の日が制定され学校が休みになり、昼間いろいろな行事が増えました。
祭りには映画鑑賞が流行っていました。四角で白黒の画面、鞍馬天狗に丹下左膳とほとんど決まっていました。
何年かしてテレビ、映画がカラー時代になりました。総天然色ワイドスクリーン。美空ひばりが悪代官と戦うと、みんなで手を叩いて応援しました。分校の庭での思い出のひとこまです。

28年頃は東は小泉村西は小淵沢村でした。篠原は北巨摩郡篠尾村です。
29年篠尾・小淵沢が合併して町になりました。
小泉村は「日野春、清春、長坂、秋田、小泉」が合併して長坂町になりました。

20年ー30年代までは日本中みんなが新時代に向かって激動の10年間でした。特に開拓は大変な時代でした。
30年代になり少しづつですが生活が良くなりました。

とりとめのない話ですが激動の10年の話を終ります。


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